4月28日 御命日の集い中止のお知らせ」への1件のフィードバック

  1. 田原 秀樹

    ◆東国布教と生活の拠点・稲田草庵(いなだのそうあん)跡~西念寺~
     建保5年(1217年)、親鸞聖人と家族は、小島草庵から笠間郡稲田郷(かさまのこおりいなだのごう)に移られました。その頃、下野の国から常陸の国にかけて大きな勢力をもっていたのは豪族の宇都宮頼綱(よりつな)でした。建久5年(1194年)、頼綱は鎌倉幕府の権力闘争に巻き込まれて反逆者の一味と疑われました。頼綱は法然上人の弟子となって出家して、「実信房蓮生(じっしんぼうれんしょう)」という法名をもち、宇都宮家の惣領の地位を弟の塩谷朝業(ともなり)に譲ることで幕府から許されました。しかし頼綱は宇都宮家の実権を握っていて、隠然とこの地を支配していたのです。頼綱の末弟が稲田の領主の稲田九郎頼重(よりしげ)でした。頼綱は頼重を非常に信頼していて稲田の差配を任せていました。親鸞聖人が法然上人の弟子であることを知っていたこともあり、頼重に聖人とその家族の世話を命じたのです。親鸞聖人の新しい住み処は稲田山の麓に造られ、「稲田草庵」と呼ばれました。
     稲田草庵での布教の様子について本願寺第3代覚如上人は、
    「聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、蓬戸を閉づといへども貴賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。この時聖人仰せられてのたまはく、『救世菩薩の告命を受けしいにしへの夢、すでにいま符号せり』と」   (「御伝鈔」下巻 第二段)
    と、親鸞聖人は越後の国から常陸の国に移り、稲田の郷にお住まいになられた。人里離れた山中ではあったが、僧俗共々に訪ねてくる人々は多く、草庵には身分の高い人も名も無き人々も続々と集まってきた。阿弥陀如来の教えを広めるという願いは成就して、約束された浄土への道は人々の生活に根付いたものになった。このとき親鸞聖人は、
    「かつて見た救世観音の夢告は、今、ようやく私の生活に現れてきた」
    と仰せになられた、と述べています。稲田草庵には親鸞聖人の法話を聞きに常陸の国だけでなく下野の国、下総の国からもたくさんの念仏信者が訪ねて来るようになっていたのです。
     頼重は親鸞聖人から頼重房教養(らいじゅうぼうきょうよう)という法名を与えられ、聖人帰洛後、草庵跡に寺を開基して、それが現在の西念寺(茨城県笠間市)の始まりとなっています。親鸞聖人はこの地で大著「教行信証」の製作を開始し草稿本を撰述されました。
     西念寺は浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めています。静寂な林に囲まれた境内には、親鸞聖人お手植えといわれる「お葉つき銀杏」や杖を突き刺すとその杖から根が生えて大木に育ったという「お杖杉」、聖人の遺骨を納める「御頂骨堂」、近くの水田には帰洛の際、聖人が振り返って草庵に別れを告げたといわれる「見返り橋」があります。
    ◆田植え歌による布教の伝承地~真仏寺~
     常陸の国那珂西郡大部郷(なかのさいのこおりおおぶのごう)に、北条平太郎という熱心な門徒の青年がいました。ある時、平太郎は親鸞聖人を大部郷に招きました。5月の田植えの時期でもあり、農民たちが念仏を知らないのを哀れに思われた聖人は、自ら田に入って田植えをされ、念仏を歌にして歌われました。歌であれば農民たちも自然と念仏を称えられるし、農作業の邪魔にならないとお考えになったからです。親鸞聖人は、

      五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に
      兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして
      一念帰命の種をおろし
      自力雑行(じりきぞうぎょう)の草をとり
      念々相続の水をながし
      往生の秋になりぬれば
      この身摂るこそうれしけれ
      南無阿弥陀仏
      南無阿弥陀仏   (「親鸞聖人御田植歌」

    と、阿弥陀仏が長い期間をかけて準備された苗代を田んぼにして、他力信心の種を植え、自力雑行の草を刈り、途切れることなく念仏を称えるように水を流せば稲が育ち、秋には収穫できるように、極楽往生が約束されていることは何と嬉しいことか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と詠まれたのでした。
     平太郎は、もともと天台宗の寺であった「蓮華皇院」という寺を宗旨替えして、念仏道場に改めました。「歎異抄」の著者・唯円の俗名は北条平次郎といい、平太郎の弟といわれています。後に二人は京都に行き、共に親鸞聖人の直弟子となり、平太郎は「真仏」という法名を与えられ、念仏道場を「真仏寺」(茨城県水戸市)と改めて開基しました。真仏寺近くの田園には「親鸞御手植えの旧跡」があり、「お田植え歌」の碑が立っています。
    ◆殺害を企て回心した弁円(べんねん)ゆかりの史跡~大覚寺~
     親鸞聖人が念仏布教を始めると、抵抗や妨害をする人々もいました。その一人が山伏播磨公弁円でした。山伏は山の中で修業して、呪術を磨いて、病気平癒を祈ったり、家内安全や五穀豊穣を願ったりするなどして里人の信仰を集めていました。親鸞聖人に帰依した念仏信者が増えるにつれて、弁円の信仰が否定され、お布施の減少となり、自らの宗教生活も脅かされるようになっていたのです。
     承久3年(1221年)、弁円は鹿島や行方(なめがた)へ布教に出かけるときに通る板敷山(いたじきやま)で親鸞聖人を待ち伏せして殺害しようとしましたが、なぜか会うことができません。弁円は意を決して稲田草庵に乗り込みました。
     このときの親鸞聖人と弁円の対面の様子を本願寺第3代覚如上人は、
    「すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱を述すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき」 (「御伝鈔」下巻 第三段)
    と、弁円は聖人の慈願に打たれ、たちまち回心して、後悔の涙を流し、自身の心情についても素直に打ち明けた。そして武具を捨て、頭巾を外し、着衣をあらためて弟子となり、後に「明法房」という法名を与えられた、とあります。弁円はこの時の懺悔と歓喜の心境を
      山も山 道も昔に かはらねど 
        かはりはてたる 我心かな
    と、板敷山も道も変わらないが、弥陀に救われて今は心がすっかり変わってしまった、と詠んでいます。
     板敷山の近くに建つ大覚寺(茨城県石岡市)には、親鸞聖人に帰依した弁円の姿を表した「弁円懺悔の像」や「親鸞聖人御満足の像」が安置されています。板敷山の山頂には、弁円が親鸞聖人を加持祈祷で呪い殺そうとして築いたとされる「護摩壇跡」も残されています。
    ◆「歎異抄」の唯円が開基~報佛寺(ほうぶつじ)~
     「歎異抄」で知られる唯円の俗名は、北条平次郎則義(のりよし)といい、物欲が強く無慈悲で、意地悪く仏教には関心が全く無く、野山に狩りに出て殺生を好む放逸極まり無い悪人でした。その妻は慈悲深い性格で、夫に隠れては親鸞聖人の稲田草庵に熱心に通っていました。聖人は妻の熱心な態度に心を打たれて、自筆の十字名号「帰命尽十方無碍光如来」を与えられました。
     ある時、夫の平次郎の留守中に、妻が名号に向かって念仏を称えていると、夫が突然帰宅して、名号を他の男の恋文だと勘違いして怒り心頭に発し、妻を斬り殺してしまいました。遺骸を竹藪に埋めて家に戻ると、死んだはずの妻が出迎えてくれました。驚いて竹藪を確かめると、血に染まった聖人自筆の名号が出てきました。驚いた二人は稲田草庵に参詣して、親鸞聖人にことの経緯を話すと、
    「御名号は、悪逆の衆生を見捨てずに光明の中に救いたまう徳号だから、その表れであろう。これは悪人女人往生の証拠の名号だから、大切にしなさい」
    と諭され、平次郎は信心に目覚めて専修念仏の門徒となりました。後に親鸞聖人から「唯円房」という法名を与えられ、仁治元年(1240年)、河和田榎本(かわだのえのもと)に念仏道場を開きました。道場跡には「唯円道場跡伝承地」の碑が立っています。これが報佛寺(茨城県水戸市)の始まりで、唯円が開基となっています。報佛寺には、平次郎が斬りつけ、妻の身代わりになったという刀の跡が生々しく残る親鸞聖人自筆の十字名号が伝わっています。

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