定例法話会、正信偈の会 5月9日中止のお知らせ」への1件のフィードバック

  1. 田原 秀樹

    ◆親鸞聖人が愛した関東の名山~筑波山~
     常陸の国の平野に忽然と聳え立つ筑波山は、「西の富士、東の筑波」とか「雪の富士、紫の筑波」と称され、往古より人々から崇め奉られてきた関東の二名山の一つです。親鸞聖人一家が越後の国から東国へ向かわれたときは、筑波山を目標に歩かれたともいわれています。20年間修行に明け暮れた比叡山と筑波山の山容が似ていることから、親鸞聖人は親しみを感じておられました。常陸の国の最初のお住まいの小島草庵(おじまのそうあん)からは筑波山が見えますし、大著「教行信証」を撰述するのに多くの仏典や経典を閲覧する必要から、筑波山神社に参詣したり、霞ヶ浦を舟で渡って鹿島神宮に参詣したりする際にも、筑波山を間近でご覧になりました。
     つくば市吉沼には「見返り榎(えのき)」の旧跡があります。小島草庵からやって来られた親鸞聖人が、榎の木の下で均整のとれた美しい筑波山にしばし見とれた場所と伝えられています。以前にはあった榎の大木は今は無く、代わって銀杏の大木が立っています。
     五木寛之は畢竟の大作「親鸞」(全6巻)で、
    「わたしはこの土地(常陸の国下妻の小島)がとても気に入りました。なによりも、筑波山がこんなに美しくみえるだけで十分です」
    「小島の草庵の庭から、親鸞はあきもせずに筑波の山容をながめている。はじめて筑波山を目にしたときは、比叡山に似ていると思ったものだ。……筑波の山には、やすらかに憩っているような、おだやかさがあった。〈念仏もこうありたいものだ〉」
    「こんど住む稲田というところからは、筑波山はみえないそうだ。さびしくなる」
                           (五木寛之「親鸞 激動篇 下」)
    などと、親鸞聖人が筑波山に強い愛着をもっておられたことを叙述しています。
     また山岳文学の大家・深田久弥は、筑波山の歴史がとても古く、山容の美しさから万葉集などの詩歌に数多く詠み歌われ、関東諸国の男女が山頂に相集う庶民の山であったことから、「日本百名山」の一つに選んでいます。
    ◆神仏習合が図られ、神と仏が御座す秀峰~筑波山~
     筑波山は古くから信仰の山として広く知られていました。筑波山神社は筑波山を御神体とする神社です。西峰の男体山(なんたいさん)の山頂には筑波男大神(つくばおのおおかみ)が、東峰の女体山(にょたいさん)の山頂には筑波女大神(つくばめのおおかみ)が祀られていました。
     延暦元年(782年)、法相宗の僧・徳一上人が筑波山寺(中尊寺)を開基してからは神仏習合が図られ、筑波山頂二社(御神体は西峰と東峰)を再建し、男女二神を筑波山大権現(つくばさんだいごんげん)と称するようになりました。権現とは神が仮に仏の姿になってこの世に現れることをいいます。
     そして西峰の神を伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と東峰の神を伊弉冊尊(いざなみのみこと)とし、数多くの社や堂宇が建てられ、本堂には男女二神の本地仏(元々の仏や菩薩)として本尊千手観音が安置され、知足院中禅寺と号するようになりました。
     こうして「神の山」筑波山は、山岳信仰に仏教を交えた修験道場として発展していったのです。しかしながら明治元年(1868年)、明治政府の神仏分離令により、中尊寺は廃寺なって壊され、その跡地に現在の筑波山神社拝殿が造営されました。
    ◆餓鬼救済の逸話が伝わる巨岩~立身石(りっしんせき)~
     ある日、筑波山に参詣した親鸞聖人は夢を見ました。その夢に従ってとある岩窟を訪ねると、大勢のやせ細った餓鬼が現われて、
    「私どもは筑波山大権現のお慈悲でここに住まわせてもらっています。しかし水は毎日一滴しか飲むことができません。二滴めを飲むと水は火に変わり、はらわたを焼き尽くすのです。どうか助けてください」
    と懇願しました。餓鬼とは、生前貪欲であったために、飲食のできない世界に堕ちてしまった者たちのことです。そこで親鸞聖人は、二日二夜念仏を称えました。すると餓鬼たちは水を飲めるようになり、さらにもう一日念仏を称えると、天から五色の雲が岩窟に降りてきて餓鬼たちを雲に乗せて、西方極楽浄土へ消えていったそうです。
     男体山山頂近くには高さ10メートル以上はあろうかという巨岩があり、ここが「餓鬼済度の旧跡」と伝わっています。この巨岩は、江戸時代後期の探検家・間宮林蔵が夜を徹して立身出世を祈願したころから「立身石」と呼ばれています。
    ◆男体山山頂で釈迦を見たと伝えられる~来迎谷(らいごうだに)~
     筑波山は男体山と女体山の双耳峰をもつ優美な山容をしていますが、それぞれの山頂の真下は急な険しい崖になっています。男体山の西側の崖を来迎谷といいます。この谷に立った親鸞聖人は、遠くの空に浮かぶ釈迦の姿をご覧になったといわれています。来迎とは仏が迎えに来てくれることで、親鸞聖人がご覧になった釈迦というのは、「ブロッケン現象」という大気光学現象だといわれています。
     朝か夕方、深い霧が晴れようとするときに山頂に立つと、太陽の光が背後から差し込み、霧粒によって光が拡散され、見る人の影の周りに虹のような光輪が現われることあります。これは山頂に立つ自分の影が映る現象で、ドイツのブロッケン山でよく見られることからこの名がつきました。男体山山頂で釈迦を見たというのは、親鸞聖人のほかに徳一上人、弘法大使空海、一遍上人たちがいたといわれています。
    ◆親鸞聖人と筑波山大権現の歌の詠み合い~歌垣(うたがき)~
     大昔、筑波山の西峰の男体山は禁足地でしたが、東峰の女体山では多くの神事や祭事が行われていました。その一つの「歌垣」もしくは「嬥歌(かがい)」は、男女が集まって歌舞飲食し、歌を詠み合ってひと時の恋を楽しむというもので、豊穣を祈願する予祝行事の一種でした。歌垣の一例として高橋虫麻呂は、
       男神(ひこかみ)に雲立ち登りしぐれ降り
         濡れ通るとも我帰らめや   
                (「萬葉集」 巻第九)
    と、男神(男体山)に雲が立ち上り、時雨が降り、濡れ通っても私は帰るものですか、と雨などは気にしないで歌垣に夢中になっている様子を詠っています。
     つくば市北条から筑波山へ通じる「つくば道」には、逆川(さかがわ)という川があり、そこに架かる橋が「来迎橋」で、元々は「ナンマイ橋」と呼ばれていました。 
     親鸞聖人がこの橋のところに来ると、筑波山大権現が老女の姿になって現れたといいます。そして老女は歌垣で問いかけました。
       筑波山のぼりてみればひげ僧の
         頭の髪はそりもやらいで
    と、筑波山に登ってみると、髭面で頭の髪の毛も剃っていない僧侶がいます、おかしなことですね、と非僧非俗の親鸞聖人を皮肉ったのです。すると聖人は、
       空んずる心のかみはそりもせで
         かしらのかみをそるぞをかしき
    と、捨ててしまわなければならない心の欲は捨てきれないで、単に頭の髪の毛をそり落としても仕方ありませんよ、と返されました。さらに老女は、私はもっと若返りたいのですが、何かいい方法はないものでしょうか、と問うと親鸞聖人は、老いていく身なのに今さら若返るというのでなくて、極楽往生を願ったほうがよいのではありませんか、などと問答を交わした後、聖人は、
       老いの波まかせてゆくやあまねぶね
         かえる若さは十八の願
    と、老いにまかせて天の小舟に乗って、南無阿弥陀仏と称えれば、誰でも救われます、これこそが若返りというもので、極楽往生に行く道なのです、と詠み歌われました。この後、老女は筑波山へ帰っていきました。この橋で、老女になりすました筑波山大権現と親鸞聖人の阿弥陀仏の話を歌垣で詠み合ったことから、「ナンマイ橋」と呼ばれるようになりました。しかしながら現在のつくば道は新道に造り変えられ、旧道に架かっていたナンマイ橋は今は何も残っていません。

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